境界

2024.08.27

融合

年を重ね、確信していた価値観が霧散していく。「成功」や「幸せ」の定義が不明瞭になるに連れ、子供時代のようなワクワクドキドキが増している。
経験は人生の不確実性を身をもって教え、同時に本当に大切なものが何かを考えさせる。

そして、ある気づきを得た。自分と周りを幸せにすることを追求すれば、利他との境界も自然となくなるのではないか?この問いは、私の中で大きな転換点となった。

私は決して立派な人間ではない。むしろ、欠点だらけの普通の中年男性だ。「立派な人間だと思われたい」という欲求に違和感を持ち続けていた。誰かの決めた道徳心、誰かのための道徳心に縛られたくない。それよりも、もっと本質的な価値観を見出したいと思うようになった。

例えば、仕事において。もはや高額案件や有名クライアントにこだわらない、いや、稼ぐ手段や資産があるのならば、職を持たなくてもいい。これは決して利己的なものではない。自分の幸せを追求することが、結果的に周りの人々の幸せにもつながる。まず自分が酸素を吸わなければ、誰も助けられない。

プライベートでも同様だ。「こうあるべき」という固定観念から解放されるべきだ。休日に家でゴロゴロしていても罪悪感を感じなくていい。それがその時の自分にとってリフレッシュになるなら、それでいい。逆に、70歳を過ぎてからスカイダイビングに挑戦したくなったら、それも良しだ。

そして、私が最も強く願っているのは、「せいぜい、2、3行で感化させる言葉を発さない人間になりたい」ということだ。大げさな言葉や、表面的な励ましの言葉、何かを言っているつもりになれるような、立派な先人の気付きや価値のありそうな言葉は必要ない。むしろ、自分の生き方そのものが、静かなメッセージとなることを目指したい。

言葉ではなく、行動で示す。それが、私の目指す生き方だ。誰かを感化しようとするのではなく、ただ自分らしく生きる。それが結果的に、周りの人々に「あなたらしく生きていいんだ」というメッセージを送ることになる。

この「個性」の追求は、決して自己中心的なものではない。むしろ、自己と他者、利己と利他の境界線を曖昧にしていく過程だと考えている。自分の幸せを追求することが、周りの人々の幸せにもつながる。そして、それが静かな社会変革の種となる。

結局のところ、やはり人生は短い。でも、その内容は自分次第で無限に豊かにできる。これからは、誰かのためでも、社会のためでもない。ただ、自分の心に正直に、美しく生きていきたい。そうすることで、結果的に周りの人間も、そして社会全体も、少しずつ幸せになっていく。そんな好循環を信じている。

大げさな言葉や、表面的な道徳観に惑わされることなく、ただ自分らしく生きる。それこそが本当の意味での「利他」につながるのではないか。そんな確信を、静かに抱いている。​​​​​​​​​​​​​​​​

虚像

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